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福岡高等裁判所 昭和43年(う)261号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を罰金二万円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金五〇〇円を一日に換算した期間

被告人を労役場に留置する。

原審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

弁護人井上允が陳述した控訴趣意は、記録に編綴の同弁護人提出の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これを引用する。

一、同控訴趣意(事実誤認)について。

所論は、要するに、本件については、被告人の車が被害者を押し倒したと認めるに足る証拠がなく、むしろ被害者が自らあやまって転倒したと判断されるばかりでなく、かりに被告人の車が被害者を押し倒したものであるとしても、その運転情況からして被告人には過失がなく、被害者が道路に出るについて左右の安全確認を怠ったため事故が発生したものと判断されるのに、原判決が被告人に過失ありとして業務上過失致死罪を認定しているのは事実の誤認である、というにある。

よって記録および原審で取調べた証拠に、当審における事実取調べの結果を参酌して考察するに、原判決挙示の証拠、ことに、≪証拠省略≫によると、被告人は昭和四〇年四月二四日午後三時三〇分頃牛深市須口九九三番地池田松芳方前の道路を須口海岸方面から鬼塚県道方面に向け普通貨物自動車(車体の長さ四・三メートル、巾一・六九メートル、高さ一・八メートル、荷台の長さ二・六メートル、高さ一・二四メートル、なお、シャシーとボデーとの間に厚さ五センチメートル、巾一八センチメートルの縦ねだがあり、その長さは荷台と略同寸法であり、その高さは下部まで六〇センチメートル、上部まで七八センチメートルである。)を運転して時速四、五キロメートルのゆっくりした速度で後退していたこと、右道路は巾員約二・六メートルの歩車道の区別のない非舗装道路で、道路の両端にはそれぞれ高さ九センチメートル、巾二〇センチメートルの帯状のコンクリートが設置してあるため、道路の有効巾員は約二・二メートルに過ぎず、当時簡易舗装のための工事中であり、道路両側の民家出入口には渡し板が置いてあるなどのため、被告人の車はかろうじて通行し得る程度であったこと、被告人は池田松芳方の筋向い(須口海岸寄り)の松本酒店から約十数メートル須口海岸に寄った地点から後退を始め、当初は車のバック窓またはバックミラーにより後方全体を注視していたのであるが、右酒店にさしかかる頃から同店前に置いてあったリヤカーを安全に離合するため、運転席右方の窓(右または左は自動車の前部に向っていう。以下同じ。)から首を出して右後方のみを注意していたし、或はその後に車のバック窓から注視したとしても、そのため後方正面および左後方の確認は一時おろそかになっていたこと、その頃被害者磯口みな(当時八六年)は前記池田松芳方出入口付近で屋敷内の道路ぎわに道路の方を向いて立っていたと認められるのに、被告人は右同女の存在に気付いていないこと、松本酒店付近で被告人車を追い越して鬼塚方面に歩いていった吉川チカノは右磯口みなが道路の向うに立っているのに気付いていたが、約七、八メートル進んだ頃同女の「アヨー」という悲鳴を聞いて振り返ったところ、磯口みなが被告人車の後車輪の近くに倒れているのに驚ろいて被告人に手で停車の合図をし、被告人は停車の措置を取ったこと、右吉川チカノおよび被告人が磯口みなの倒れているところにかけ寄ってみたところ、同女は頭を道路中央寄り、足を池田松芳方寄りにして身体の右側を下にして被告人車の後部荷台の下に横たわっており、そのときは被告人車の左後車輪が同女の身体の上に乗りあげているような状態にはなかったこと、同女は同町須口九九三番地の七の自宅にかつぎこまれたが、交通事故に遭った者としての治療を受けることなく、同日午後一〇時三〇分頃死亡したことが認められる。

神田瑞穂作成の鑑定書(以下神田鑑定書という。)および証人神田瑞穂の原審公判廷における供述ならびに牧角三郎作成の鑑定書(以下牧角鑑定書という。)によると、磯口みなの受けた損傷は体表において右上肢左下肢に皮下出血、右下肢に表皮剥脱を伴う皮下出血があり、下腹部には正中上部と外陰部全般にわたり皮下出血があり、体内においては恥骨骨折と腸間膜破裂があって、その死因は恥骨骨折およびそれに伴う腹部大動脈の分枝小血管の損傷に基づく失血であり、腸間膜破裂および恥骨骨折は人体が転倒したとか、転倒して石塊に腹部が当ったとかいう程度のことでは生じ得ないものであると認められる。そうすると、磯口みなの恥骨骨折等の致命傷は、後退中の被告人車の作用によって生じたものと認めるほかはない。しかして、受傷の原因については、神田鑑定書によれば、「交通機の車体の一部が腹部および外陰部に衝撃を与えて恥骨骨折を招来し、ために路面に転倒して上、下肢に損傷を形成したものと推せられる」とするのに対し、牧角鑑定書によれば、「磯口みなは本件自動車によって最初立っているところに時速四乃至五キロメートルで後退してきた車体後部の衝突接触を受け(その部位はおそらく右前腕、右大腿等)、そのため転倒して右側を下にして横たわっているところへ後退してきた左後車輪タイヤが被害者の外陰部や下腹部に接触し強く圧迫したために恥骨骨折や腸間膜破裂等の重傷を受けたものと推定する。」というのである。そのいずれを信用すべきかは軽々には断じ得ないが、骨折を生じさせた鈍体の作用の仕方は恥骨の前面よりも後面に亀裂が多く生じ範囲も広いことからみると、衝撃的に作用したと考えるよりは圧迫的に作用したと考える方が無理がない。腸間膜損傷は下腹部に作用した鈍体と腰椎との間に腸間膜がはさまれて挫砕され破裂したというのでなければ説明の仕方がないとする、牧角鑑定書の説明には否定し難い合理性があること、前記認定のように被告人車は時速四、五キロメートルという人の歩く位のゆっくりした速度で後退していたのであるから、車体が被害者に衝突、接触した衝撃により腸間膜破裂、恥骨骨折を与え得たかについて若干の疑問が感ぜられることからみて、牧角鑑定書を信用すべきものと認める。ちなみに、被害者の右上、下肢および左下肢に存する前記軽度の損傷が被告人車との接触、衝突によって生じた(被害者磯口みなが瞬間的に後退車の方に向をかえたことも全く考えられないことではないと思料されるので)ものか、接触、衝突によって転倒した際路面の石塊等によって生じたものかは、右程度の軽い損傷が転倒することによっても往々生じ得ることに鑑みると、そのいずれとも断定し得ないものと考える。(牧角鑑定書によるも右損傷が車体との衝突、接触によらなければ生じ得ないものと判定しているとは認められない。)しかも、いずれにしても被告人車の後部が磯口みなの身体に接触したため同人が転倒した蓋然性は極めて大であると推認するに難くない。

右説示の牧角鑑定書による受傷の原因と前記認定の本件事故の経過とを併わせ考えると、本件事故は後退中の被告人の車が道路上に出た被害者に車体後部を接触させて路上に転倒させ、左後車輪がその下腹部、外陰部に乗りあげたために生じたものであると認めるのが相当である。そして証人池田テルの原審公判廷における「婆さんの左側の腰のあたりに一尺位のタイヤの跡が着ておられたドンジャについていたようでした」という供述は右認定を裏付けるものである。事故直後に吉川チカノ等が被害者の倒れているところにかけ寄ったときには被告人車の左後車輪が被害車の身体の上に乗り上げているような状態にはなかったことは前に認定したとおりであるが、それは左後車輪が被害者の身体の上に一旦乗り上げたのち、被告人が前進措置をとったため、(原審の検証調書に記載された吉川チカノの、なお私が合図した時運転手は車を反対の方向に少し進めて止めたようでしたが、古くなるのではっきりした記憶がない為の指示説明参照)、あるいは、制動をかけ停止した直後自然に被害者の身体から滑り落ちたために、右のような情況になっていたと理解することが可能であるから、前記認定の妨げとはならない。所論は、被害者が自らあやまって倒れたものである旨を主張するが、右主張に副う証拠はなく、被害者が自ら転倒するということは例外的な出来事であるから、右主張を認めることはできない。(かりに自ら転倒した被害者に左後車輪を乗り上げ死亡させたものとしても、後記のように、被告人に被害者の動静に注意すべき義務が認められるから、被害者の死亡は被告人の注意義務の懈怠によるものというほかはなく、被告人の責任に帰することにおいて差異はない。)

さらに進んで被告人の過失の有無について判断するに、被告人は前記認定のとおり、右方の窓から首を出し、次いで車のバック窓からのみ後方を注視して右後方に注意を奪われ、適切な時期に左側バックミラーによる左後方の注視を欠いたため、左後方池田松芳方出入口付近に道路の方を向いて立っていた被害者に気がつかなかったことが明らかである。被害者は八六才という高令であり、視力および聴力が衰え身体の動作も緩慢であることが推測されるばかりでなく、老人は往々にして幼児、児童のように交通規範を遵守せず、運転者の予測外の行動に出るおそれがあるのであるから、もし、被告人が車のバック窓からのみでなく左側バックミラーにより左後方の注視をしておれば、おそらく被害者の存在を確認することが可能であったのに、これを怠ったものと推認される本件において、被害者の存在を確認すれば同女が後退中の被告人車があるにもかかわらず道路に出てくることのあるべきことを考慮してその動静に注意を払い、事故の発生を未然に防止すべき注意義務があったと解されるし、また右のように注視義務を尽しておれば、(かりに被害者が道路に出て自ら転倒したものとしても)、本件事故の発生はこれを防ぐことができたものと認められる。被害者が道路に出る際左右の安全を確かめず被告人車に気付かなかったのは同女の大きな落度ではあるが、同人が高令であったことを考慮すると、被告人にも前記のような過失のあったことを否定し得ない。

原判決が本件事故を被告人の後方確認義務懈怠によるものであるとして、業務上過失致死罪の成立を認定しているのは相当である。もっとも、原判決は被告人が後退するに際し磯口みなに自車の後部車体を接触させて転倒させよって同人に恥骨骨折等の重傷を負わせと認定しているから、左後車輪を被害車の身体の上に乗り上げたのが受傷の原因であるとする前記認定と異っており、その限度では事実の誤認があるが、いずれにしても本件事故が後方確認義務懈怠によって生じたものであることに差異はなく、左後車輪が被害者の身体の上に乗り上げたとするも、それは後部車体を被害者に接触させたことに続いて起きた一連の出来事であるから、右の程度の誤認は判決に影響を及ぼさない。原判決には所論のような事実誤認はなく、論旨は理由がない。

二、職権をもって調査するに、原判決は被告人に罰金四万円を科しているのであるが、前段認定のように、本件事故が被告人の過失に基づくことは否定し得ないとしても、被害者の側にも重大な過失があったことに鑑みると、右科刑は重さに過ぎ、その量刑が不当であると認められるので、原判決はこの点において破棄を免れない。

そこで刑事訴訟法第三九七条に則り原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書に従い自ら判決することとする。

原判決の確定した事実に法令を適用すると、被告人の所為は行為時法によれば、昭和四三年法律第六一号による改正前の刑法第二一一条前段に、裁判時法によれば右改正後の同法第二一一条前段(なお改正の前後を通じてさらに罰金等臨時措置法第三条)に該当するところ、右は犯罪後の法律により刑の変更があった場合であるから、刑法第六条、第一〇条により軽い行為時法を適用することとし、所定刑中罰金刑を選択し、所定金額内で被告人を罰金二万円に処し、同法第一八条により右罰金を完納することができないときは金五〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、原審における訴訟費用は刑事訴訟法第一八一条第一項本文に則り全部被告人に負担させることとする。

よって主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 岡林次郎 裁判官 緒方誠哉 池田良兼)

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